校章

東京都立小石川中等教育学校

校長メッセージ

令和6年3月

「古墳時代の住居址を発掘する」

(今回の校長メッセージは2年生対象の「校長の授業」として話した内容です。)

東京都立小石川中等教育学校
鳥屋尾 史郎

 今からおよそ40年前、昭和50年代の話になりますが、私が大学1年生の時に体験した古墳時代の住居址を発掘調査したことをお伝します。

 6月に入り、大学での生活にもそろそろ慣れ、漠然と夏休みをどう過ごすか考えていました。大学生になったのだから、これまで経験したことのない経験をしたい、行ったことがない場所にも旅行もしたい、でもお金も必要だからアルバイトもしたい。そんなことをあれこれと考えながら、大学構内の建物を歩いていたところ、文学部史学科の掲示板に「夏休みの考古学発掘調査参加学生の募集」のお知らせが貼ってありました。 「夏休み中の考古学発掘調査に参加する学生を募集します。期間は2週間以上参加すること、宿舎完備、1日のアルバイト代は3600円、食事は3食食券で支給、参加学生の学部、学年は問いません」という内容で、私にぴったりと思いすぐに参加を申し込みました。

 夏休みとなり、私は8月半ばの月曜日から発掘調査に参加しました。
発掘現場は近県の電気製品メーカー工場の敷地内にありました。着替えなどをリュックに詰めて背負い、最寄り駅前のバス停から工場直通バスに乗り、工場の正門前でバスを降りました。とても暑い日だった記憶があります。正門を入り、奥まで進んだところにプレハブが2棟立っていて、そのプレハブが発掘作業の拠点でした。発掘に参加する学生は、その二棟のうちの片方のプレハブに集合させられました。
後で分かったことですが、そのプレハブが発掘作業のミーティングや発掘物を保管するする部屋、事務所があり、もう一つのプレハブが作業学生の居住する生活用のプレハブでした。発掘に参加する学生は10人ぐらいだったと記憶しています。女子学生が2~3人いました。
私たちはミーティング室で折りたたみいすに座り、現場責任者である大学院の学生から説明を受けました。大学院生は自分のことを「チーフ」と呼び、すでに30歳を過ぎていて、いったん社会人になったあと、大学に再度入学し、現在この発掘現場を任されているという自己紹介をしました。

 そして、この現場で発掘が始まった経緯、いつの時代の遺跡なのか、作業をする際に注意すること、その他この現場で生活していくために必要なことなど、多岐に渡る説明をしました。
それによると「電気製品会社が新しい工場を建てようとしたところ、土器が出てきたので工事を中止して発掘を始めた。現在発掘している時代は古墳時代で、現在の地表から約50センチ下にある。この現場は住居址がいくつも発見されていることから、みんなには古墳時代の住居址を発掘してもらう。この地域の古墳時代の住居は竪穴式住居である。発掘して出土したものについては規定の記録を取り、紛失しないように十分に気を付け、収蔵室に格納する。」ということでした。

 発掘現場はプレハブから歩いてすぐのハンドボールコートぐらいの広さの長方形の土地で、確かに50センチぐらい地面から掘り下げられていて、私たちは板のスロープを伝って地面に下り立ちました。
すでに発掘が進められている住居址がいくつかあり、これから発掘を始める予定と思われる目印もいくつかがありました。すでに数名の若者が片手にシャベルをもって作業を行っていました。私たちは実際に地面を掘り始める前にチーフに集められ、発掘に関わる基本的な知識についてレクチャーを受けました。

 まず、日本における発掘で重要なのは、土を見ていろいろと判断することだとチーフは言いました。世界中で考古学の発掘が行われているが、発掘場所の風土、気候、文化、歴史など、その国や地域に合った発掘方法がある。日本では土を見ることが大事だと繰り返しました。
50センチ掘り下げている土の壁面に私たちを連れていき、現在の私たちが生活している時代から何センチ下のここら辺に江戸時代の地表面があったこと、さらにその下のここら辺が鎌倉時代の地表、その下のここら辺が平安時代、そして今君たちが立っているのが、今回の調査対象である古墳時代の地表面であると言いました。このあたりの土は黄色い粒の混じった土であることが特徴的で、住居址を発掘する際にこの黄色い粒が混じっている土に注目する必要があると説明してくれました。

 竪穴式住居はあった場所とそうでない場所の見分け方については、地面を指で押しながら土の硬さを確認するという説明がありました。
地面を親指で押しながら硬さを確認すると、人間が生活した地表面は踏み固められているので固く、後からほこりや塵が積もって土となった部分は柔らかいので、地表の固さで住居跡がどんな形であるのかが分かるということでした。

 この発掘調査を経験した後のことですが、「日本の歴史 第3巻 奈良の都(中央公論社)」に、土に着目する日本独自の発掘技法についての記載されているのを読みました。
そこには、平城宮の発掘に関する記述があり、現在の平城宮跡は復興した建物が建ち、観光スポットとなっているが、発掘調査を開始する前は、「大黒の芝」と現地の農家の人たちに呼ばれる一段高くなった土壇だけが田畑の中にあり、その土壇を平城宮大極殿ではないかと考えたのが、東京帝国大学教授の関野 貞氏という方で、明治32年(1899年)のことだったということです。
平城宮の発掘とその後の多くの古代遺跡が存在する奈良県でのさまざまな発掘調査により、建物の柱の礎石や詰石、盛り土を識別し、土を見分けることで遺跡を判別していく日本独自の発掘方法ができあがっていったということでした。 私がチーフに教えてもらった発掘調査方法は、こうして開発された発掘方法を受け継いでいるものと思います。

 こうした説明を受けた後、私ともう一人の新人発掘学生は、大学3年生の女子学生を班長とする3人体制の班となり、一つの住居址を発掘することとなりました。この3年生はすでに以前にこの現場の発掘調査に携わった経験がありました。
班長は、最初に発掘する住居址の大きさと形を特定する必要があると言いました。私たちがこれから発掘するあたりの地面を見ると、一か所だけ土が赤く変色しているところがあり、班長が言うことには、この赤いところが住居址のかまどのあったところだということでした。
私たちはそのかまどを中心に、先ほど習ったばかりの「地面指押し固さ測定法」によって、住居址の場所を特定する最初の作業を始めました。
この発掘現場の竪穴式住居は方形であることが多くて、その方形の隅にかまどが設置されていたから、このかまどが方形住居のどこであるかが分かれば、おおよその住居址の形と大きさが分かると班長は言いました。

 そこで、私たち新人発掘学生は地面に這いつくばって、そこら中の地面を親指で押し始めました。正直言って、地面の固さの違いなんて微妙なものなので、新人の私には全く分かりません。もう一人の新人と顔を見合わせながら、「ここは固いぞ」とか「ここは柔らかだ」とか言いながら押していき、その境い目を竹べらで線を引いていき、夕方の作業終了時刻ごろにはバドミントンコートぐらいのいびつな長方形の住居址ができあがりました。 結構いい感じの形になったと自画自賛して最初の日の発掘作業を終えました。

 発掘作業を終えて、道具を片付け、宿泊プレハブに戻って風呂に入り、夕食は工場の職員食堂に食券をもって出かけました。3種類ぐらいの定食の中からメニューを選んで食べ、プレハブに戻ってくると、夜のミーティングが始まります。
夜のミーティングでは各班の発掘の進行状況を説明し、どんな出土品があったのか、どんな状況で出土したのか、明日の作業の予定はどうなのか、問題点や疑問点は何か、といったことが報告されます。
一つの班の報告が終わると、その班の報告に対して、他の班員から質問があり、チーフからアドバイスや今後の発掘の方向についての指示がありました。
ミーティングが終了するとフリーの時間になり、そのままミーティングルームでおしゃべりをする者、洗濯に取り掛かる者、宿泊プレハブで読書する者など学生のフリーの時間の使い方はいろいろでした。

 翌朝、6時半に起床し、朝食を摂り、朝食後プレハブの前で朝の朝礼を終えて発掘現場に行き、昨日「地面指押し固さ測定法」によって形を特定した住居址の発掘を掘り始めようとしていたら、チーフから「待った」がかかりました。
住居址の形をチーフ自身で確認するということになり、チーフが地面を押しながら、住居址の大きさを確認していったところ、バトミントンコートの大きさだった住居址は半分ほどの大きさに縮まってしまいました。
発掘作業が進んでいる他の住居址はどれももっと大きいので、小バドミントンコートの半面の大きさの住居址は小型の住居だったということができます。軍手をはめた手に「こて」と呼ばれるシャベルをもって、住居址の枠の内側の地面を少しずつ平らに削っていきます。 チーフからは50センチほど削っていくと住居の床面が出てきて、その床面は人間が生活していたから踏み固められていて、硬くなっているので、そこまで発掘をすすめるように指示されました。
実際に発掘作業を始めたところ、暑い真夏の日差しの下で発掘をするのは大変なことでしたし、担当の住居址が小型ということもあって、班長と班員2名の3名全員が住居址に入って作業するのは無理で、2名が作業し1名が外で待機か、他の班からサポート要請があるので、そちらに手伝いに行くか、発掘によって出た土を「ネコ」と呼ばれる一輪車に積んで土捨て場に捨てに行くといったことで発掘作業を進めました。

 住居址の床面を削っていくと、土器の破片がよく出てきました。この住居址がどれくらいの期間で何人の人たちが暮らしたのかは分かりませんでしたが、古代日本の一般の人が住んでいる住居には土を焼いてできた器がたくさん備えられていたということを感じました。

 11時30分になると作業を中断してお昼を社員食堂に食べに行き、2時半までお昼休憩となります。お昼休憩の時はほとんどの人が昼寝をしていました。暑い中での発掘は若い私たちにとっても肉体的にきつい作業なので昼寝がどうしても必要でした。2時半になると作業を再開して5時過ぎまで作業を行い、片付けと風呂、食事、ミーティング、フリー時間といったように1日目に経験した通りに2日目も終わっていきました。

 発掘に従事した2週間は大体このスケジュールで一日が過ぎていきました。土曜日は午前中作業した後、土曜日午後と日曜日が休みとなるため、多くの学生がいったん帰宅しました。私も土曜日の午後に家に帰り、日曜日の夜に発掘現場に戻りました。

 住居址を「こて」で少しずつ削るように発掘を始めて3日目ぐらいのことでした。削った地面の下に小さな緑色の2センチぐらいの棒状の石が出てきました。班長が「管玉だ」と言ってチーフを呼びに行きました。チーフはていねいに管玉を地面から堀り出し、住居址の図面に管玉の出土位置を書き込んでいました。

 管玉とは、ビーズのように穴をあけてひもを通して首飾りなどに使われた装飾品です。
ヒスイや碧玉のような石からつくります。材料となる石の形を整えて穴をあけ、さらに研磨して表面がピカピカするように磨きます。
この時に見つけた管玉が何の石でできたものかは、私には分かりませんでしたが、アクセサリーとして古代人を飾ったものに違いありません。

 2週目に入り、ある程度住居址の発掘が進み、発掘開始当初は地面からしか見ることができなかった「かまど」の全容が明らかになってきました。
かまどは当然その住居に住んでいる人が煮炊きに使うとともに、寒ければ暖炉として使ったことが想像できます。毎日の煮炊きに使うためには使い勝手が良くなければいけませんし、煙が住居の中に充満するような構造であっても困ります。発掘が進み上部からだけでなく、横からも見ることができるようになったかまどは赤茶色の土に覆われていました。2週目の最初の日、住居址にチーフがやってきて、今日の午後かまどを切ってみようと言いました。

 そして午後の最初に私たち3名の班員が見守る中、チーフがかまどの前に座り、「こて」と竹べらを使って、赤茶色のかまどの土を掘り始めました。
そして、赤茶土の内側には、やや黒っぽい大きな土器がありました。チーフは土器の写真を撮影しながら発掘を進め、図面に記録を取り、最後にかまどの中から土器を取り出しました。
この住居址から出土した土器のなかで一番大きい土器でした。煮炊きの台として使われていたのか、煮炊きそのものに使われていたのか、結局はよく分かりませんでしたが、当時は大きな土器が出てきたことだけで満足していました。

 2週目の3日目ぐらいのことでした。 他の班が担当している住居址から、「骨が出たぞ」という声が上がりました。私たちは自分たちの作業をやめて、その班の住居址を見に行きました。
私たちが発掘している班の住居址よりも倍以上広い住居址の中にチーフが入り、刷毛でていねいに住居址の床面の土を掃きながら、骨の位置が明らかになるように作業を進めていました。
離れた場所から見た私たちにも、横向きになって寝ている人の姿をした骨の形が少しずつ明らかになっていきました。発掘している私たちだけではなく、敷地の持ち主である電気製品工場の人も見に来ていました。

 骨が見つかった翌々日の午後、発掘現場にはお坊さんの姿がありました。
工場の担当者の人が、近所のお寺の住職さんを読んでお弔いをする依頼をしたということでした。骨が出た住居址の前には簡単な祭壇が設けられ、その前にお坊さんが来て読経をしました。私たちは順番に神妙な顔をしてお焼香をしました。

 お坊さんが来た翌日が2週間の発掘調査の最終日だったと記憶しています。
土曜日の午前中に私たちが担当した古墳時代の住居址の測量を行い、図面に測量値を記録して住居址に別れを告げました。

 この40年間で、日本の古代史をめぐるさまざまな発掘の成果がありました。
有名な吉野ケ里遺跡における発掘調査は1980年代に大きく進み、大規模な環濠集落が発見され、古代史の研究は一気に進みました。しかし、一方で「神の手」とまで言われた日本古代史の研究者の出土品捏造事件も平成12年(2000年)に起きました。 こうした日本古代史に関する報道があるたびに、自分が経験した発掘調査のことを思い出します。

 歴史の研究は文献の記録と、発掘調査により発見される遺構や出土品から分かることの点と点を線で結びつけて事実を明らかにしていく作業で、一つの発掘調査の発見で歴史が書き換わる可能性は常に秘められています。
小石川の生徒の中に、歴史研究者が出て新しい歴史を発見する人もいるかもしれません。
府立第五中学校の卒業生の中には騎馬民族征服王朝説で有名な江上 波夫氏がいます。江上 波夫氏を超える歴史学者を育てたいものです。

校長メッセージ

令和6年2月 「紫のこと」(913KB)

令和6年1月 「私たちは21世紀を“人道支援の世紀”と呼べるようになるか?」(994KB)

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令和5年11月 「伊藤長七初代校長先生から引き継いだ小石川の教育」(961KB)

令和5年10月 「行事週間で生徒たちが獲得する力」(884KB)

令和5年9月 「The International Baccalaureate」(864KB)

令和5年8月 「たたらと灰吹」(825KB)

令和5年7月 「小石川の授業でのコンピュータの使い方」(999KB)

令和5年6月 「生成AIとの付き合い方」(963KB)

令和5年5月 「大学入学共通テストの数学の出題から考えたスポーツをめぐるさまざまなこと」(704KB)

令和5年4月 「STEM教育を考える」(742KB)

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令和4年11月 「図書館をめぐる話」(844KB)

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令和4年5月 「3年生の移動教室でおいしい水って何?と考えた」(867KB)

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令和3年12月 「自分に都合の悪い現実から目を背けない」(782KB)

令和3年8月 「シェークスピアとニュートン ベストをめぐって」(674KB)

令和3年7月 「オリンピック・パラリンピックから何かを得てほしい」(668KB)

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