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東京都立田柄高等学校 全日制

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2022/03/31 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔86(最終回) 光が丘とのお別れの言葉

最終章 光が丘とのお別れの言葉

 一般的に一つの広域な地域が,例えば,山林が切り崩されて,田畑となり,やがて宅地となることはあったとしても,わずか数十年の間に二転三転することは普通あまりないことであると思われる。しかし,この「光が丘」は,20世紀の間に大きな変貌を遂げてしまった。日本の中でも,これ程,数奇な運命を辿ったところも数少ないものと思う。それが,東京都の23区内に存在していたのである。

 もし,ここに「成増飛行場」が出来ることさえなかったら,「グラントハイツ」ができることもなかったと思うし,現在の「光が丘団地」を形成することもなかったと思う。それこそ,現在の大泉や石神井,田柄,早宮,高松,春日町地域と同じように,この現在の光が丘地域も,きっと宅地が広がる東京の山の手地区として練馬の一地域として存在していたことであろう。それこそ,昭和18年に「成増飛行場」建設に英断を振るった陸軍航空本部の大河内中佐が,現在の「光が丘」を見たらただただ驚くばかりのことであろうと思う。きっと,当時,「成増飛行場」を建設したことが,このような運命になるとは少しも思わなかったに違いない。

 「成増飛行場」,「グラントハイツ」,「光が丘」は,同じ地域に存在したということ以外,一見して全く繋がりがないように思われる方も多いと思う。しかし,これらには,いずれにも繋がる共通のキーワードがあることに気が付いてほしい。それは,「反戦」というキーワードである。「成増飛行場」建設のために,泣く泣く先祖伝来のこの土地を手放さなければならなかった80カマドの人々にしてみれば,それは云うまでもないことであると思う。「グラントハイツ」にしても,一般の練馬の住民にとっては,占領軍という理不尽さしかなかったのではないだろうか。

 現在の沖縄における嘉手納基地や普天間基地の問題も,米国は代替地を求めることで日本へ解決策を求めてきている。横田基地にしても,その存在のために,羽田空港や成田空港からの旅客機の運行を過密化していると云われている。基地問題は,そこに住む住民にとっては重要なことでも,直接利害関係がないと他人事のように思ってしまうことが多いと思われるが,我々が住んでいるこの練馬に,それもまだわずか三十年余り前に基地問題があったのである。このことを我々はいつまでも忘れてはならないと思う。

 奇しくも,明治12年の来日で親日家の「グラント将軍」は,「平和をわれわれに」という言葉を残していっている。また,平成7年8月15日,練馬区は戦後50年を祈念し光が丘公園の一角に「平和記念碑~平和への祈り~」を建立した。普段,あまり意識する方は少ないと思われるが,筆者はここを訪れるたびに,「光が丘」に対する色々な思いを巡らせてしまうことを禁じえない。やっと,出来あがった21世紀型未来都市「光が丘」を,本当に平和な魅力ある街としていつまでも残すためにも,ここまでの足跡を意識していかければならないであろう。

 最後に,恩師 日和佐 章 先生の言葉を引用させていただき本稿を閉じることにします。

 光が丘は,平和の中にしか,存在しない…かりに,光が丘がかつてのようにB-29によって爆撃されたと想定してみよう。谷原の高圧ガスタンク群はメキシコ・シティーの爆発同様,この地域を一なめに破壊しつくすであろう。核戦争の危機については,言うまでもない。光が丘を闇が丘にするような過ちを避けるのは,人間の叡智をおいて他にない。」

 

本稿への永い間のお付き合い、感謝いたします。光が丘地区の皆さんにも御礼申し上げます。

都立高校の教員として34年間有難うございました。これがお別れのご挨拶です。

田柄高校は令和4年4月から新しい体制になります。

今後も東京都立田柄高等学校への変わらぬご支援ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。有難うございました。

               令和4年3月31日(東京都立田柄高等学校第十二代校長(統括校長)加藤竜吾)

 

お知らせ:令和4年度に都立学校公開講座「光が丘学」を田柄高校で再開することになりました。詳細は、本校のHPでご案内する予定です。