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東京都立田柄高等学校 全日制

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2022/03/04 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔65 「千葉県柏市光ヶ丘,光ヶ丘団地」

千葉県柏市光ヶ丘一丁目~四丁目

 ① 正式住居表示(町名) 千葉県柏市光ヶ丘一丁目~四丁目

 ② 施行年月日      昭和49年 4月 1日

 ③ 施行前の旧町名    千葉県柏市光ヶ丘の一部,中新宿の一部

 ④ 現在の主たる地目   宅地

 ⑤ 町名(名称)決定した主たる理由

 地域住民の生活上あるいは社会的にも「光ヶ丘」という名称は深く浸透しており従来の名称に準拠した方が得策であると思われたため。

 ⑥ 候補となった他の町名の例示

 「光ヶ丘東山」。

 ⑦ 歴史的なものなど何か貴所「光が丘,光ヶ丘 等」で由緒あるもの

 別添をご参照下さい。

 ⑧ 「が,ヶ,ガ」を使用した理由

 従来の名称が「光ヶ丘」であったため。

 ⑨ その他特記事項

 「光ヶ丘」という地名の由来は,光ヶ丘団地ができるときに名前が必要だろうと地元の方が相談して「光は東方から」というので「光ヶ丘」にした。

 

千葉県柏市光ヶ丘団地

 ① 正式住居表示(町名) 千葉県柏市光ヶ丘一丁目~四丁目

 ② 施行年月日      昭和49年 4月 1日

 ③ 施行前の旧町名    千葉県柏市光ヶ丘の一部

 ④ 現在の主たる地目   宅地

 ⑤ 町名(名称)決定した主たる理由

 地域住民の生活上あるいは社会的にも「光ヶ丘」という名称は深く浸透しており従来の名称に準拠した方が得策であると思われたため。

 ⑥ 候補となった他の町名の例示

 「光ヶ丘東山」。

 ⑦ 歴史的なものなど何か貴所「光が丘,光ヶ丘 等」で由緒あるもの

 別添をご参照下さい。

 ⑧ 「が,ヶ,ガ」を使用した理由

 従来の名称が「光ヶ丘」であったため。

 ⑨ その他特記事項

 「光ヶ丘」という地名の由来は,光ヶ丘団地ができるときに名前が必要だろうと地元の方が相談して「光は東方から」というので「光ヶ丘」にした。

 

 千葉県柏市光ヶ丘一丁目~四丁目及び光ヶ丘団地は,千葉県柏市の南部の起伏に富んだ土地に造成されたところにあり,光ヶ丘団地と麗澤大学がある。歴史的には,古戦場としても由緒あるところである。現在の地番変更は昭和49年に行われているが,日本公団住宅が設置される昭和30年には呼ばれていた。柏市史に拠れば,次のような記述がある。

 

「光ヶ丘は昭和29年に町村合併によって市制が施かれた後に生れた名前です。

 古い時代には「境根原」と呼ばれていたといいます。「鎌倉大草紙」などに太田道灌の一隊がこの原で文明十年(1478)に戦闘をしたことを伝えています。境根の名の起こりは,当時の郡境に当っていたためとも種々の説がありますが,この文明の戦争の際,井戸の水でかわいたのどをうるおし,水がまるで酒のようであったというので酒の井戸から酒井根に変わったものと伝えられています。

 光ヶ丘一帯は今でも合戦場と称している人が多い所です。以前は古墳らしい円墳がたくさんありましたが今はほとんど住宅化のために姿をけしてしまいました。山林だけのこの土地の一角に昭和十年道徳科学専攻塾(現 麗澤大学)が生れました。現在の広池学園です。日本のマカロニーの先駆をなした中新宿在住の大久保仙七氏のお宅に日ごろから親しくしていた広池千九郎法学博士がたびたび訪れ,大久保氏から当時この一帯が東京市の墓地の候補地になっていることを聞き地主連の反対者の声なども入れてここに学園を設立する機運が生まれ,当時の小金町の有志が主となってできたものでした。当時の会合では「学校かそれとも墓地か」のスローガンが広く広がったものでした。この広池学園の設立に関係した人は,ほとんど故人となって健在なのは,大久保老ただ一人でしょう。

 ここは小金町の飛び地でした。現在の中原と一緒であったわけです。現在の松戸市根木内は以前の土村根木内でしたが学校が遠かったため(土村は現在の増尾にある土小学校だけでした)小金町の学校に委託されていたわけです。そんなことから両町村で会議がもたれ,根木内を小金町に,飛地の一部を土村にということになりました。村に編入された小金町飛地の一部は中原という新たな名称で生れかわったのでした。

 実際にこうした事が行われて後も,一部の人たちは議員や委員になった人々を,人家の多い根木内の代償に無人の山林ばかりの中原をもらうとは全く無能な連中だと,ののしったこともあったと聞きます。

 そうしてそれに続く飛地が市制施行で東葛市として今の基盤が出来ました。

 光ヶ丘団地は,昭和31年に日本に住宅公団が生れて最初に荒工山と共に着工されました。小さい荒工山が少し早く,31年の11月に入居が始まりました。光ヶ丘は翌年の32年の3月に入居が始まったのでした。荒工山が13棟,114戸,光ヶ丘が108棟,974戸でした。当時の有名な婦人雑誌にはカラー写真で紹介されたものです。

 松林が続き,でこぼこ道のひどかった合戦場が近代的な住宅に変ったことを知らない人が久しぶりに親類をたずねてここを通り,昔はよくこの辺で狐にばかされた話しがあったが,おれもばかにされてしまったと,親類に行くどころか,ほうほうのていで自宅に帰ってしまったという,笑い話さえ残ったほどです。(斉藤吉永)」(斉藤,柏市役所(編);不明)

 

 東京都練馬区光が丘ができる以前,東京都内で“ひかりがおか”と言えば,柏市光ヶ丘を指すことが一般的であった。

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