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東京都立田柄高等学校 全日制

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2022/02/14 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔57 光が丘黎明期4

 昭和49年には,東京都都市計画決定として3月11日に「東京都立光が丘公園」を跡地北側60.7[ha]に開設することを決定した。この公園は,広域避難場所も兼ね備えるものである。しかし,住宅地区,他の開発方法は,周辺住民との話し合いがなかなかつかなかった。例えば,道路拡張問題などにその端点が現れていた。そこで,第三者機関 地域総合計画研究所に調査依頼し,昭和50年3月に「グラントハイツ周辺地区整備に関する報告書」が練馬区に提出された。その中では,過密化が予想される学校,不足する病院,交通アセスメントが課題とされた。そこで,昭和53年1月,練馬区は「グラントハイツ周辺地区整備基本構想」を出している(練馬区史編さん協議会;1981,練馬区総務部情報公開課;1995)。

 一方で,光が丘団地問題は,昭和46年の大蔵省計画住宅戸数23,000戸80,000人の計画を,東京都は昭和50年9月3日に15,000戸~16,000戸と軟化させてきた。しかし,練馬区は12,000戸42,000人の計画を進めていたため,再度練馬区議会は12月25日「グラントハイツ跡地利用に関する具体策を求める要望書」を提出した。

 その後,昭和51年4月1日東京都立光丘高等学校の開校,昭和52年4月1日練馬区立田柄第三小学校の開校がなされた。返還後の昭和49年からは,初めに公園地管理のための金網柵設置を行った。このとき,跡地住宅200戸,病院,劇場等の取り壊し,舗装道路の取り壊し,埋没されている共同溝(ダクト)や排水溝の掘り起こし,電柱などの撤去等,野球場や陸上競技場予定地以外の施工がなされた。昭和50年に入ると,建物は一切なくなり,跡地に夏草で覆われた。この頃は,北西側に設けた侵入路から植樹を行っている。昭和51年から昭和52年には,北西地区の下水幹線0.8[km]の埋設と樹木の植樹,移植を行った。

 一方で,昭和52年2月,東京都立光が丘公園の着工が始まった。まず,現在の野球場や陸上競技場付近から着手している。昭和53年からは公園附帯整備として,芝生の整備,公園灯の設置,四阿[1]の設置を行っていくことになる。更に,東京都水道局練馬給水所施設60[t]級の受水槽タンクと圧力ポンプ及び給水管1.0[km]の敷設を行った。これによりグラントハイツ時代の学校跡には,貯水槽たる調整池が設けられた。昭和54年度には,公園道路の設置,便所の設置,休憩所の設置,給水設備及び下水幹線の設置を昭和56年までに行われていった。昭和56年には一部開園のための最終段階として,駐車場の整備,公園管理事務所の設置,ベンチ,ゴミボックスの設置などが施された(戸田,東京都光が丘公園管理事務所(編);1988)。