校章

東京都立田柄高等学校 全日制

動画はこちら

ニュース

2022/01/28 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔52 グラントハイツ返還運動4

 練馬区役所は,昭和44年11月1日に「グラントハイツ対策室」を設置し,以後の返還運動に対する対応及び交渉窓口を設置しました。又,東京都は,総務局に昭和44年12月15日「基地返還対策室」を設置しました(練馬区史編さん協議会;1981)。

 昭和45年になると,大蔵省は,国有地の売却は住宅公団などに行い,その費用によって,跡地整備費と米軍の移転費用に充てる方針を立てました。移転費用は,約245億円といわれています。しかし,戦前からの苦労を強いられてきた練馬区民にとって有効な指針としての不安があったため,練馬区議会は,昭和44年の返還に関する意見書に加えて,「グラント・ハイツ跡地利用に関する意見書」を満場一致で採択しました(練馬区史編さん協議会;1981)。

 更に,昭和45年には,7月12日に練馬区議会主催による「跡地に区民の夢を グラントハイツ問題報告会」集会,8月7日に練馬区青少年委員会,練馬区立小・中学校PTA連合協議会による「グラントハイツ跡地利用に関する要望書」の提出,12月24日には,署名約18万人にも及ぶ「グラントハイツ跡地利用に関する区民等による署名簿」の提出なども行われました(練馬区史編さん協議会;1981)。

 昭和46年4月に,美濃部亮吉東京都知事は「広場と青空の東京構想(試案一九七一)」を発表した。その中ではグラントハイツ跡地整備目標として,「1,周辺地区との調和のとれた緑豊かな市街地整備をする」,「2,区部周辺の旧緑地地域一帯の整備拠点とする」「3,種々の階層や年齢の市民が快適に住める理想的な地域の形成をはかる」などを述べています。

 そして,やっと昭和46年8月1日の日米安全保障協議委員会でグラントハイツ住宅地区(183.1[ha])及び武蔵野住宅地区(13.3[ha])の全面返還決定が昭和49年3月までになされることが決定しました(練馬区史編さん協議会;1981)。

 そして,練馬区議会は,小委員会を設置し,各種320団体の連合的団体「グラントハイツ区民運動連絡会」を設置し運動を展開することとなりました。その一環として,昭和46年10月9日,練馬区議会との共催で「グラントハイツ跡地利用区民総決起集会」を練馬区立中村西小学校校庭で開催しました。この中での跡地利用は,試案として決議されている。これを契機にグラントハイツ区民運動連絡会は,関係機関への働きかけを強めていきました。

 しかし,昭和46年12月27日,大蔵省による国有地処分方針として,練馬区の試案とは異なる「グラントハイツ跡地利用計画案」が公表されました。これは,住宅団地そのものも余裕のない劣悪なものでありました。しかし,昭和47年2月の第88回国有財産関東地方審議会は,これを受けて大蔵省案通りの答申決定をしました(練馬区史編さん協議会;1981)。

 このため地元と国との間に色々な攻防が行われていきました。昭和47年6月17日に,東京都,練馬区,板橋区,日本住宅公団,東京都住宅供給公社の長による「グラントハイツ跡地開発会議」が設置され,東京都は都市計画局と住宅局,練馬区はグラントハイツ対策室が窓口でありました。

 練馬区は,「グラントハイツ跡地開発会議」の中で,昭和47年7月,「跡地と周辺地域の同時開発,住宅戸数と周辺環境問題,交通対策,広域避難場所としての公園」の4本柱による練馬区独自の計画案を策定した。ちなみに,交通対策としての地下鉄12号線(大江戸線)計画はこの年の3月に都市交通審議会から昭和60年開通を目途とする計画路線として初めて登場したものです(練馬区史編さん協議会;1981)。

11