校章

東京都立田柄高等学校 全日制

動画はこちら

ニュース

2022/01/24 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔49 グラントハイツ返還運動1

グラントハイツ返還運動

昭和34年から逐次始まった基地縮小化に伴い,次第にグラントハイツ返還運動への機運が強くなっていくこととなりました。

まず,戦後に接収された拡張部分についての土地は,米軍が国に賃借する形を取って,国が地主に坪25銭の地代を払うという契約で続いていました。しかし,その額は極めて低い上にこの時期の貨幣価値の変動もあり,値上げ交渉が始まりました。田柄地区の地主二十数名は,「グラントハイツ田柄町地主会」を結成し,数度の値上げをさせました。そして昭和35年,国の東京防衛施設庁局方針により,地主に対して買上げの要請があり,坪11000円~12000円で売却をよぎなくされました。しかし,一部の旧地主には故中村梅吉衆議院議員の仲介により,衆議院議長,東京都知事,練馬区長に対し,戦前の部分に当たる土地返還の陳情書を提出しましたが,「昔のままの畑とか山林のままならば返還してもよいが,建物が建っているので駄目だ。」という理由で返還に至らなかったといいます(練馬区史編さん協議会;1981)。

そしてその後,米軍もほとんどいなくなった広大な土地を目の前にして,周辺住民の思いは複雑なものがあったといいます。更に,汚水処理場の施設不備や衛生状態の悪化により,蝿や蚊が発生するようになり,周辺環境の悪化も起こってきました。

そのような中で,昭和39年12月18日,須田操練馬区長が東京都知事に対し,「東京都および練馬区の発展のためにグラント・ハイツを解放し,都市計画施設の整備とその一環として,その一部を練馬区民の利用に供すること」の要請を行いました。更に,昭和40年10月には東京都を通じ,防衛施設庁に接収解除を求めた。しかし,返還が必ずしも猶予がない状況にはなかったので,棚上げ状態となりました。一方で,昭和42年から400日にわたる区長の不在となったこともあり,その間の基地返還への進展はありませんでした。

そのような中で,昭和43年12月6日,米軍から代替施設の提供を条件に,グラントハイツの返還に同意する旨の表明がなされました。ここからが,「光が丘」の誕生の礎となるところでありました(練馬区史編さん協議会;1981)。

6