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東京都立田柄高等学校 全日制

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2021/12/27 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔41 Narimasu High School(NHS)1

Narimasu High School(NHS)1

グラントハイツにおける学校は,既に述べた小学校と高等学校が存在しました。その場所は,現在の東京都立光丘高等学校の南東部分で1969年8月以前の東京都練馬区旭町無番地,9月以降の光が丘1番地でGrant Heights House Number 756及び806です。現在の東京都練馬区光が丘四丁目の東京都立光が丘公園内です。小学校は施設東側に,高等学校は施設西側にありました。これらは小学校が5年制で高等学校は4年制でした(但し、当初は異なりました)。名称は,小学校はGrant Heights Elementary School或いはNarimasu Elementary Schoolと呼ばれ,グラントハイツ内の居住児童を対象としていました。それに対して,高等学校はTokyo American High School-Narimasu, Narimasu American High School, Narimasu High Schoolなどと呼ばれていましたが,正式名称がはっきりしません。その理由は,高等学校は東京地区の他の米軍施設にはなかったため,Washington Heightsなどを初めとした他の居住施設の生徒も通学してきていたことに起因していると考えられます。そのため,学校側はTokyo American High School-Narimasuを呼称としていましたが,多くの在校生や卒業生はNarimasu American High SchoolやNarimasu High Schoolと呼ばれていました。そのため,この高等学校はNHSなどと略称されていました。

しかし、その後分かったこととして、Narimasuは、当時、目黒にあった日本の古いアメリカンスクール(ASIJ)の亜流だったのです。それは第二次世界大戦後、占領軍により、さまざまな学生のための学校になりました。軍と民間の扶養家族、宣教師の子供と外国の「ミッション」からの学生が関わりました。廊下で聞かれる言語の数は目を見張るものがあり、多くの学生が日本語と英語、そして母国語に堪能だったと言います。(全然、違いますが、どこか「田柄高校」も似ている所があります)学生たちはグラントハイツを含む地域中からバス通学(いわゆるバッシング・・・但し、本国で使われる意味の所謂「強制バス輸送」ではありません)をしました。

その後、ASIJが過密になったため、NHSは1948年の夏に7〜12年生を扱うために建てられました。 1948年秋に開校し、当初約250人の生徒と16人の教師がいました。初代校長はミランB.シュタイク中佐先生でした。 ASIJとは異なり、成増の学生委員会はほぼ完全に民間および軍の扶養家族で構成されていました。彼らは、グラントハイツ、キャンプドレイク(第一騎兵師団の本拠地)、立川、横田、およびジョンソン空軍基地から通ってきました。遠くは、群馬県小泉町から通ってきていた生徒も若干名いたと言います。交通状況が現在ほど発達していなかった時代に不思議な話です。何故か、中国からの共産主義乗っ取りで中国からも来た生徒もいたと言います。ですから当初は、Narimasu Middle Schoolだったようです。その後、4年制のハイスクールになりました。(私の理解が異なっていたらぜひアメリカのNHS同窓会の皆さん指摘して下さい!! 第十二代校長 加藤竜吾)

NHS2