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東京都立田柄高等学校 全日制

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2021/11/30 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔29 Grant Heights施設概要 その1

Grant Heights施設概要 その1

グラントハイツは,治外法権の区域であり,日本国内でありながら米国として取扱われていました。これは,現在の横田基地や沖縄の嘉手納基地,普天間基地などと同じ状況下にあったといわれています。その規模は,米軍側のレポートによると次の通りの英文による記載がなされていました。

「…東京都心の北西の飛び地にあるグラント・ハイツは,第二次大戦終結直後,アメリカ軍が日本政府から没収した。

 3006の施設の内訳は,総面積447.1[エーカー]の土地に730の建物,総床面積220万[平方フィート],1286の付属住宅設備,88人の収容能力を持つ4つのBOQタイプの建物,道路総延長距離14.7[マイル],学校,教会,劇場,PX,ガレージ,ドライブイン,民留地,売店,補給部隊附属供給部,将校クラブ,下士官クラブ及びプールがある。

 第5空軍部隊は,1958年7月1日,所有地の支配職務移動の一環として,グラントハイツの管理を陸軍から引き継いだ。現在の施設は陸軍時代のときと,殆ど変わらずに残っている。…」(練馬区史編さん協議会;1981)

この他にも,成増特別電報電話局,郵便局,消防署,自動車修理工場,ヘリポート,ローラースケート場,ゴルフ場,野球場陸上競技場,浄水場,汚水処理場,保育所,集会所,ガソリンスタンド,日本人従業員寮,診療所,理髪室,美容室などがありました。

このようにして,練馬区が板橋区から独立した昭和22年8月1日の翌年,昭和23年6月,成増飛行場跡地に金網のバリケードと守衛の常駐するゲート等に守られた1446戸の赤い屋根に白い壁の広々とした家々や緑の芝生の広い庭を有するアメリカの町が,練馬区のど真ん中に突然に出現したのです。当時,住宅不足だった東京の人々を羨ましがらせました。

グラントハイツ内の子どもたちは,教育は徹底し,躾も良かったといいます。しかし,金網のバリケードを抜け出して,いたずらをすることもあったといいます。緊急時の手伝いをしてくれる子どもたちもいました。しかし,子どもどうしで物々交換したり,居住して10年近くになると,家族ぐるみでの付き合いをしている家庭も少なくなかったといいます。クリスマスやバースディなどには招待しあったりしたといいます。多く人々が,日米親善に貢献していました。

グラントハイツ内の道路標識はマイル表示で右側通行でした。路線バスも通行していたが,ここでは,すべてがアメリカ様式でした。グラントハイツへの交通手段は,啓志線による鉄道旅客輸送と池袋駅北口までの米軍家族用の循環特別バスがありました。このバスは数年後には,日本人も利用できるようになりましたが,張本のグラントハイツの入口では,バス乗客全員の通行許可証の点検で一時停止させられました。

写真は,循環特別バスで,国際興業バス仕様の縞模様のバスで“SPECIAL”という表示が行先表示板に記述され,中央には,東京地区にある米軍基地の名称が記述されていました。このバスが練馬区内で見られたのは,グラントハイツ以外には大泉学園駅とキャンプ朝霞を結んでした現在の学園通りだけでした。(第十二代校長 加藤竜吾)

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