校章

東京都立田柄高等学校 全日制

動画はこちら

ニュース

2021/11/19 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔27 Grant Heightsの建設

Grant Heightsの建設

終戦後焼き払われた成増飛行場は,戦後暫く使われずに放置されていましたが,昭和21年になると,戦時中強制収容された一部の旧地主らの呼びかけにより一部,農地として開墾耕作が始まりました。初めに,耕作事業組合を結成し,測量も行い,飛行場北側の補助滑走路付近から一反歩の単位で耕地整理を行い,縄張りをして各戸への割当てを行いました。食糧難の時代であったこともあり,大蔵省の許可も比較的容易に下りたという。場所によっては,許可なく耕作していた者もいたといいます。主滑走路は,コンクリートにより舗装されていたので,先に補助滑走路から手を付けたわけであるが,コンクリート張りでなくても飛行機の離着陸で土は固くなっていたため,機械も2~3台使用したが,耕作にはスコップが曲がり,つるはしも役に立たないぐらい大変でした。

一部の説によると成増飛行場は,そのままGHQの進駐軍飛行場として使われる可能性もあったいう。戦後,米軍機が飛来し,成増飛行場の当時のまま残されていた滑走路に着陸を試みたが,着陸したとたん滑走路がへこみ事故を起こしたといいます。これは,元々成増飛行場が小型戦闘機と中型輸送機用の飛行場として建設されたため,主滑走路の幅員は60[m],コンクリートの舗装の厚さも12[cm]と薄いので,爆撃機の重量には耐えられず,飛行場そのものの広さの限界性から実現せずに,立川地区,横田地区へ展開することとなったらしいといわれています。この頃,立川の飛行場も候補に上がっていた。立川は,主滑走路の幅が100[m],舗装も何重にもなっていて21[cm]と厚く,施設も広かったため,現在の横田基地が米軍の飛行場となりました。

しかし,その耕作も1年程度で種を撒いたものの大麦が20[cm]程度に成長したところで収穫を待たずに,再度追い出されてしまうことになってしまいました。それは,GHQ占領軍による米国陸軍住宅基地(のちの第34空軍)の駐留軍成増家族宿舎建設工事のためでした。

昭和22年4月5日,東京都成増建設事業所が開庁になり,川越街道側から着工し始めました。更に,成増飛行場東側の田柄四丁目地域ではマッカーサー元帥の命令で,現在の光が丘公園の陸上競技場の付近と田柄高校・旧田柄第三小学校(現 光が丘秋の陽小学校)・旧光が丘第四中学校(新練馬光が丘病院)・秋の陽公園に当たる部分の用地に接収命令が出て,敷地が拡張されました。この時,旧練馬土支田町の東側の加藤佐平氏宅を含めた3軒にも立ち退き命令がかかり,昭和22年5月に区議と共に陳情にいき,かろうじて宅地だけは残ったといいます。現在の光が丘公園の屋敷森として残っている部分です。このため,加藤佐平氏宅は,旧練馬土支田町の飛び地として残ったが,後に田柄に編入されていました。一時期は,行政区分上の問題で,グラントハイツ内の通行証により土支田地域へ抜けていたといいます。現在は,加藤佐平氏宅跡の屋敷森は戦前からの唯一の土壌を残す屋敷森として貴重な保存地域となっていて,既に,家屋はないものの井戸の跡なども残されています。

川越街道からの工事と一方で,啓志線による建設資材の搬入も行い,初期のグラントハイツは,米軍軍事顧問団宿舎睦台住宅側から完成していきました。

一方,成増飛行場北西側の旭町付近では,特別調達庁の役人が来て,都合のいいように杭を打ち境界を作ってしまいました。更に,成増飛行場南側の高松付近でも,周辺を貸借され,後に坪約400円で買い取られたといいます。

こうして,成増飛行場跡地と拡張された地域は,占領軍に接収されたが,戦後に拡張された地域は,変電所,ゴルフ練習場,啓志駅のプラットホーム,ボイラー工場などができた。このときの工事も,成増飛行場のとき同じように突貫工事で作り上げられました。

そして,昭和23年6月に駐留軍成増家族宿舎Grant Heightsは完成しました。(第十二代校長 加藤竜吾)

GH1948