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東京都立田柄高等学校 全日制

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2021/11/04 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔25 田柄川その2

田柄川その2

1.田柄川の行政区分

田柄川は,多摩川からの引水でしたが,成増飛行場とグラントハイツ期の暗渠化が,田柄川の練馬区における正式行政区域を変えてしまいました。一般に,練馬区役所土木課では,現在の秋の陽公園[1]が,最上流域とされており,そこから田柄三丁目と田柄四丁目の境界-田柄一丁目と田柄二丁目の境界-北町八丁目-北町五丁目-ここで川越街道を横切り-北町三丁目-北町二丁目-北町一丁目-ここで再び川越街道を横切り-錦一丁目と錦二丁目の境界-城北公園の北側を抜け-板橋区桜川一丁目で石神井川と合流する延長4.5[Km]を呼んでいます。従って,田無から光が丘に至る部分は,行政上は名前もない「ドブ川」ということに扱いになります。石神井地区では,田柄用水を守るため掘削や掃除,除草を強いられたから「厄介堀」でした。

2.田柄川の暗渠化と田柄川グリーンベルト

1970年頃は,田柄川を見ることが出来た末期の頃でした。現在の田柄,北町地区は,元々湿地帯であったところに,戦後の宅地化がさなれました。そのために,降雨時の家屋浸水被害を生じる原因となっていました。筆者が子どもの頃,事実,大雨の後は,北町一丁目付近でも沈下橋となりかねない流れを持っていたのを覚えています。特に,川筋が湾曲している北町及び錦地区では,昭和33年の狩野川台風などを初めとして,甚大な被害を起こしていました。この時期,狩野川台風ではグラントハイツも浸水しています。しかし,通常時期も子どもの頃はかなりの流れがあったが,末期の田柄川は,細い一筋の流れが常でした。

田柄川の改修工事は,戦前は耕地整理組合による農地対策事業でしたが,戦後は田柄川緑道整備事業がメインでした。末期の田柄川は,川幅平均3.6[m]の狭さで,護岸工事も土あげで川岸の補強工事程度でした。一部に施行した板柵も増水対策にはあまり効果がなかったといいます。そこで,当面の応急対策として,田柄川の分水を石神井川に放流することとしました。一方,東京都が策定した「東京都中小河川緊急整備五ヵ年計画」によって,昭和43年から川幅を6[m]と拡幅し,河床の掘削と護岸工事を施工しました。そして,昭和46年9月からは,下水道利用として田柄川幹線工事が始まり,暗渠化が始まりました。工事は,北町二丁目の陸上自衛隊練馬駐屯地の官舎裏を昭和48年に始めたのを皮切りに,田柄地区から光が丘地区までと北町一丁目までが昭和52年までに完成しました。残りの,錦地区は昭和56年までに完成しています。そして,「練馬区緑道整備計画」によって河川跡を田柄川緑道「田柄川グリーンベルト」として改善されたのが現在の姿です。

最後に,平成15年まで残っていた田柄川にかかる橋の一つであった旧大山道の橋であった棚橋の欄干も,環状八号線の工事に伴い富士橋などと同様のメモリアルになってしまいました。これで名実共に田柄川は,下水道幹線となったと云えるです。

ちなみに,新興住宅地には,たいてい排水が間に合わなかった場合の調整池を有している。本校前の東京都住宅局の土地も光が丘地区の調整池であるが,これは田柄川の排水が間に合わなかった場合の田柄川調整池としての役割にもなっています。現在の秋の陽公園には田柄川の上流部であるという記録の看板の他,東京都下水道局の「東京都下水道局田柄川幹線埋設位置」の石柱が3本程度あり,下水道農村地区としての田柄用水の名残として周辺小学校の小さな田圃もあり,かつての雰囲気を醸し出しています。

[1]グラントハイツ途中の啓志駅南側付近にあたる。当時の地図も,田柄川の河川は,その部分から始まっている。

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