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東京都立田柄高等学校 全日制

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2021/10/27 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔24 田柄川その1

田柄川 その1

田柄川[1],一般に田柄用水は,元々,玉川上水から田柄地区まで引かれていました。起点は,多摩川上流堰の羽村(標高160[m])の玉川上水です。実際には,現在も水道道路と呼ばれている村山貯水池に向かうところです。この羽村と福生の付近から所沢街道に沿っていきました。ここでは現在の横田基地を横切り,瑞穂町を抜けて,野火止用水を横切り,小平村3番地(標高105.7[m])に至り,小平村の上宿(標高94.2[m]),中宿,坂窪[2],下宿,小川新田,野中新田を抜け,田無村北芝久保から田無(標高65.5[m])に入ります。ここから,玉川上水の流れとは半兵衛水車により分流し,上保谷(標高55.7[m])に入る。田無の田無分水口から韮窪付近までは人工掘削による用水部分であり,練馬地区に入ると,富士街道にほぼ沿っています。この区間には,下田家水車,桜井水車,島崎水車,速見水車,鴨下水車などと共に,生活用水としての洗い場もありました。この区間の大部分は既に暗渠となっています。上石神井,下石神井,を抜けて,西武池袋線の石神井公園駅の西よりから水車により北田中を抜け,鴨下の水車で北上し,下土支田(標高40.4[m])に入っています。土支田地区は,田柄川上流部の枯れ川を利用して掘削したため,地形と屈曲した区間が続いています。土支田からは,関口水車により土支田農業公園,豊渓小学校付近から東方へ入り,光が丘地区に入ります。ここから錦一丁目付近までも人工掘削で開通した区間であり,石神井川に至る残りの区間は自然河川であったといいます(平田;2004)。光が丘地区の田柄谷(たがらやつ)からの田柄用水は,田柄川の北側を通っています。成増飛行場時期には既に暗渠化されており,途中3箇所のマンホールがあったといいます。そして,田柄の金子水車から大堰,池端を抜け,上練馬,下練馬(標高35.5[m])の9つの村を流れて下練馬で石神井川に注いでいました。この田柄川の河川は,距離的には,羽村から田無までの約37[km]及び練馬地区関町から石神井川合流地点まで約20[km][3]の合計約57[km]に及びました。現在,田柄用水の跡を辿れる部分は,富士街道の西村バス停付近の一部分と西武池袋線石神井公園駅の大泉学園よりから笹目通りまでのかなりの部分は,「水路敷」として遊歩道が整備されています。笹目通りから光が丘にかけても煉瓦敷の遊歩道をなしており,一部分100[m]程の人工流水の部分もあります。実は,この笹目通りから光が丘にかけての部分が約八丁(900[m])あり,八丁堀は,田柄用水の開通により合わせて埋められたとも言われています。この人工流水は,その八丁堀を模したものとも言えます。田柄川の河川は古く,武蔵国土支田村小島家文書(練馬区教育委員会(編);1993)にも記録があります。時代は,江戸時代末期の万延元年(1860年)に遡り,明治2年(1969年)に田柄用水は完成した[4]といわれています。元々,石神井川や白子川流域では,谷津田が耕されていたのに対して,土支田地区,田柄地区を含む光が丘地区は既に述べたように「主なし」の湿地帯であったから,耕作地には適さず,雑草やすすきが生えていました。当時,土支田地区,田柄地区の住民は水田が欲しかったため,この堀を引いたといわれています。慶応元年(1865年)の下土支田村の村高は,578石8斗2合,171町6反1セ25歩。戸数は,108戸。住人は654人,馬12足。作物は,大麦,小麦,粟,ひえ,蕎麦,大根,茄子,牛蒡とあります。陸稲は干ばつで収穫がなかったときもあると述べられています。水は雨水頼りで,雨乞いの神頼みであったとも云われていました。ちなみに,明治2年の上練馬村では,戸数は420戸,住人は1864人,馬92足との記録があり,これは,江戸時代末期の数十年来ほとんど変動のない数となっています。

田柄用水の本格的な開発は,明治4年(1871年)1月で,田無,上保谷,関,上石神井,下石神井,谷原,田中,上土支田,上練馬,下練馬の10箇村役人連名の「新水路拡張の願書(玉川上水北側新井筋分水路)」を品川県(当時)に提出しています。この中では,田無村飲用水を上練馬村に引くことで正式に畑や陸稲用の田畑を水稲の水田に転用できたといわれています。

元々,用水であった田柄川には,どじょうや鮒などもいた小川でした。成増飛行場の接収で既に述べた「島地」はこの田柄堀によって出来た湿畑とも云われています(小島兵八郎;1975)。

一方で,練馬区教育委員会(2003),平田(2004)に拠れば,田柄用水の流路に関する地形図からの疑問点,工事記録の疑問点,開通時期の疑問点,分水記念碑建立時期の疑問点[5],用途の疑問点[6]などを「田柄用水 七つの謎」として提起されています。記録が乏しいことと,開通してからの付け替えや光が丘地区の地形の変更などがより不明な点を多くしているものと考えられます。

[1] 一般的に田柄川は行政的に施工された光が丘地域からの河川であり,その北側を流れていたのが田柄用水とされる。

[2] 現在の武蔵野線新小平駅付近をいう。

[3] 小島家文書に拠れば,四里十三町十七間半(17.159[km])である。これは,流域毎の合計距離である。

[4] 小島家文書に拠れば,明治4年(1871年)5月開通とすることが一般的である。

[5] 田柄四丁目の天祖神社に移設された田柄用水記念碑の建立が明治26年(1893年)となっている。

[6] 平田(2004)に拠れば,水田などの農業用水は現在の秋の陽公園の周辺の一部で,明治20年代にできた製紙工場用の工業用水や漬物用の野菜の洗い場など生活用水としての目的が中心であったという。

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