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東京都立田柄高等学校 全日制

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2021/10/13 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔20 練馬の空襲 

練馬の空襲

昭和19年11月から始まった本格的な東京への空襲は、昼夜を問わず3~5日間隔 で続きました。練馬地区における空襲も昭和20年8月10日までに合計18回来襲してきています。これらの目的のほとんどは、成増飛行場、陸軍第一造兵厰練馬倉庫、鐘紡練馬工場などを目標としたものであったと考えられます。更に、隣接地には、中島飛行機武蔵野製作所もあり、戦闘機など陸軍施設の破壊を目的としたものと考えられ、練馬地区で発見されている多くの焼夷弾の不発弾も、それらを攻撃目標とした流れ弾の一部と考えられます。
昭和20年には入ると、東京地区の主要な軍事施設は、壊滅状態となっていきました。成増飛行場でも昭和20年2月には四式戦闘機キ-84「疾風」が配備されましたが、稼動率は良かったものの時既に遅くほとんど充分な迎撃ができなかったといわれています。
最終的に関東地方に来襲した米軍機は、艦載機と爆撃機を含めて6、247機、落とした爆弾は焼夷弾を含め34、128[t]という記録も残っています。練馬地区の被害状況は、昭和19年11月24日から昭和20年6月10日までで合計18回、爆弾976個、焼夷弾7574個、不発爆弾99個、死者160名、重傷者50名、軽傷者65名、全焼857件、半焼26件、全壊78件、半壊111件、羅災者数4088人と記録されています(練馬区戦争体験記録刊行委員会(1991)平和への架け橋(下巻)-練馬区戦争体験記録-)。
戦局も悪化した昭和20年4月8日、大本営陸軍部は「大本営に於ける本土作戦準備計画」を策定しました。その中で、「航空関係兵站準備の重点は、飛行機保全施設の強化、特攻機用爆弾の整備、指揮情報通信網の整備、並びに航空燃料の地域分散確保とし、実施については6月末完成を目途とする」と発令しています。このため戦力の温存のために、戦闘機の分散や隠蔽をする方針に変更しました。そのため成増飛行場でも、昭和20年4月頃、戦隊本部や兵舎、ピスト、有蓋掩体壕32棟等を解体し、飛行場の周辺に分散しました。従って、戦闘機を飛ばすときには、第43飛行場大隊が周辺の掩体壕に隠蔽してある戦闘機を飛行場までその度毎に運ばなければなりませんでした。

06-01-011