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東京都立田柄高等学校 全日制

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2021/10/20 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔21 終戦時の「成増飛行場」

終戦時の「成増飛行場」

戦局も悪化した昭和20年4月8日,大本営陸軍部は「大本営に於ける本土作戦準備計画」を策定しました。その中で,「航空関係兵站準備の重点は,飛行機保全施設の強化,特攻機用爆弾の整備,指揮情報通信網の整備,並びに航空燃料の地域分散確保とし,実施については6月末完成を目途とする」と発令しています。このため戦力の温存のために,戦闘機の分散や隠蔽をする方針に変更しました。そのため成増飛行場でも,昭和20年4月頃,戦隊本部や兵舎,ピスト,有蓋掩体壕32棟等を解体し,飛行場の周辺に分散しました。従って,戦闘機を飛ばすときには,第43飛行場大隊が周辺の掩体壕に隠蔽してある戦闘機を飛行場までその度毎に運ばなければなりませんでした。

昭和20年5月,飛行第47戦隊が都城西飛行場に移駐してからは,「振武隊」の訓練があっただけで,昭和20年6月~7月は,フィリピン戦線から撤退して来た飛行第101戦隊,飛行第102戦隊,飛行第103戦隊が,成増飛行場にいただけでした。その後,昭和20年7月1日に飛行第102戦隊は成増飛行場で解散し,飛行第101戦隊と飛行第103戦隊に吸収されました。飛行第103戦隊は昭和20年7月末に淡路島の由良飛行場へ移駐,飛行第101戦隊も昭和20年8月12日に第100飛行団の高松飛行場へ移駐しました。そして,昭和20年8月15日終戦時の成増飛行場の在中戦隊は,いませんでした。

この飛行第101戦隊,飛行第102戦隊,飛行第103戦隊の戦闘機もまともなものはなかったといいます。米軍艦載機もそれを察知し,終戦末期の成増飛行場近辺には機銃掃射や爆弾を落とさなくなったと言われています。

そして,戦後事実上廃墟となった成増飛行場に昭和20年8月24日,数台のジープに分乗したアメリカ兵がにやって来て,残っていた数機の戦闘機にガソリンをかけて炎上させました。そして,もうもうたる黒煙が翌日まで,田柄,土支田,高松の空を曇らせたという。

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