校章

東京都立田柄高等学校 全日制

動画はこちら

ニュース

2021/09/24 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔16 特別攻撃隊「震天制空隊」と山鹿流陣太鼓

飛行第47戦隊による特別攻撃隊「震天制空隊」と山鹿流陣太鼓

山鹿流陣太鼓と言えば、ほとんどの方は、赤穂浪士の討ち入りを思い浮かべることでしょう。儒学者 山鹿素行 の教えによるものです。

成増において、昭和19年11月1日からの3度に対する偵察機への迎撃が出来なかった原因は、その原因はキ-44の性能に問題があったわけですが、それは戦闘機の重量を軽くすることが手っ取り早い対応策でした。そこで、昭和19年11月17日,第10飛行師団吉田喜八郎少将は、軽量化して上昇力を高めた飛行機による体当たり攻撃を決意し、隷下の各戦隊に4機ずつの特別攻撃隊(特攻隊)の編成を命じました。隷下戦隊隊員の見田伍長、鈴木、坂本、永崎によるB-29体当たりのキ-44による特別攻撃隊「震天制空隊」を編成しました。

昭和19年11月24日の大規模な空襲は、中島飛行場武蔵野製作所を目標としたもので、B-29の88機の大編隊で,215[t]の爆弾を投下していきました。このときは成増飛行場から40機出撃まししたが、全機が10000[m]まで上昇できず、非武装の特攻隊機だけが銚子沖で体当たりを敢行しました。帝都防衛部隊の中で、最初に散った特攻隊員は、成増飛行場から飛び立った見田伍長で、19歳青年であったが、銚子上空でB-29に体当たりし、敵機1機を撃墜し、戦死しました。この体当たりが第1号でした。翌11月25日、吉田第10飛行師団長は、唯一の防空力強化策として、特攻隊機を8機に倍増するよう命令を下しました。

このとき成増飛行場でも4機編成の2個小隊を作ったが、昭和20年からはこれに2機増やし10機編成の1個隊に変更しました。

飛行第47戦隊の特攻隊機のマークは、独立飛行第47中隊時代に使用された「山鹿流陣太鼓」に翼をアレンジしたものを使用しました。図版を見てお分かりのように、陣太鼓の左右は鍾馗の主翼をイメージしたものになっています。まさに、「震天制空隊」は、成増からの討ち入りに喩えられた攻撃隊だったのです。(第12代校長 加藤竜吾)

yamaga