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東京都立田柄高等学校 全日制

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2021/08/04 TGR光が丘今昔

TGR光が丘今昔2 「啓志駅」

「啓志駅」

田柄高校の建設と同時に取り壊されたのが、啓志駅です。元々戦時中に東武東上線上板橋駅から練馬倉庫駅(旧陸軍第一造兵廠内 現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)まで2.8[km](正確には1.8km)の路線を、戦後グラントハイツ建設と旅客輸送を目的として開業させたもので、日本国有鉄道の記録では昭和22年3月25日開業、営業キロ6.3[km](正確には4.2km)と記録されています。啓志線は、戦後は、「戦災復興院練馬倉庫専用線」と呼ばれていました。この啓志という名前は、グラントハイツまで延長させたケーシー氏の名称に依拠しています。啓志線は、昭和22年12月6日から昭和23年2月26日まで池袋からグラントハイツまでの30分に1本の直通列車(非電化路線のためガソリンカー(気動車))運行をしていました。GHQの占領軍時代ということもあり啓志駅には、米軍のRTO(Railway Transportation Office)も置かれていました。その後、建設に伴う貨物輸送は激減し輸送費用が占領軍持ちとなったため、輸送目的はなくなり、記録では昭和32年8月1日付けで廃止されています。その後、路線跡も少しずつなくなり、昭和40年代初頭までには線路はほぼなくなっていたといわれています。

しかし、グラントハイツが昭和48年9月30日に日本へ完全返還され、昭和50年代後半までの「光が丘」開発中は、残置物の多くを見ることができました。末端で5路線に分岐されていたうちの一番北側の路線跡に併設されていた啓志駅のプラットホームは奇跡的に昭和56年まで残っていました。写真は、その現在地を田柄高校敷地内のほぼ同じ位置から撮影したものです。壊される前の写真は、練馬区役所「練馬わがまち資料館」へのリンクをご覧ください。同じアングルで撮りましたが、マンションもその後建設され、1981年当時と様子は全く異なります。

田柄橋付近から撮影された豊島園通りから写真では、グラントハイツまでバス輸送していた成増特別循環バスの車庫とグラントハイツ駅、ボイラー工場などを見ることができます。現在の光が丘秋の陽小学校から田柄高校を見た位置関係となります。1956年の写真は少し高い位置からの撮影です。(第十二代校長 加藤竜吾 記)

P1000972.JPG 啓志駅跡(2021) 下記1981とほぼ同一アングル

P1000973.JPG 田柄橋付近の様子(2021) 下記1956とほぼ同一アングル

下記はいずれも練馬区役所の「練馬わがまち資料館」へのリンクです。

啓志駅跡(1981)

田柄橋付近の様子(1956)