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2021/08/31 TGR光が丘今昔
TGR光が丘今昔10 「ドーリトル(Doolittle)空襲と成増飛行場」
「ドーリトル(Doolittle)空襲と成増飛行場の建設」
日本は島国であるため、本土空襲のためには日本に気づかれないように近づいて都市攻撃をしなければなりません。米軍は日本から1000km以上も離れた空母から大型双発爆撃機で東京、名古屋、神戸などの都市を攻撃しました。昭和17年4月18日のことです。この空襲のことをドーリトル空襲と後に呼ばれています。このことが契機となって、帝都護衛と飛び立って3分で皇居に辿り着けるところに飛行場が必要となりました。大泉緑地計画とドーリトル空襲が成増飛行場建設の契機となりました。ドーリトルとは、B-25に搭乗した中尉の名前から呼ばれています。
当時の光が丘地区等の予定地の地主約500名が昭和18年6月24日に板橋区役所へ印鑑持参で呼び出されました。初め避難場所を作ると聞かされていたのが、このとき、初めて飛行場を建設することになると云われ、契約書等もなく一方的に押印させ、60日以内に立ち退くように言われたとされています。土地収用価格は、田や山林が5円/坪、宅地でも15円/坪と言われましたが、戦後紙切れとなった軍事国債で支払われた人もいます。代替地を求めることも難しい時代、離農補償や立ち毛補償(この年の作付け中の農作物の補償のこと)もありませんでした。立ち退きをしつつあるところで、飛行場工事も開始されました。
終戦後、戻って農業を再開しようとした旧地主たちは、GHQに占領されたグラントハイツ建設のため再び追い出され、基地返還後に戻ろうとした旧地主たちは戦前との様子が変わってしまっていたこともあり、戻ることは叶いませんでした。(第12代校長 加藤竜吾)
練馬区役所情報公開室所蔵資料から引用